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1963年7月2日付。岩田孝七氏からミュニィエ号のニュースが初めてもたらされた(94頁) |
1965年、ミュニィエ号と最後の別れをするデボス氏。バスケットには「TOKYO」の文字(94頁参照)
1963年7月2日付。岩田孝七氏からミュニィエ号のニュースが初めてもたらされた(94頁)
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65年2月、ドマレー夫妻を訪問した並河靖氏・右端。背景の額にはミュニィエの絵が飾られている(92頁)
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65年4月、愛鳩の友社にて。先に導入されていた
父鳩を持つミュニィエ導入者の大田誠彦氏・右と
のちの飼育者となる宮沢和男氏(96頁) |
ピート・デウェールトの著書の表紙に使われたのはドマレー氏が撮ったミュニィエ号(102頁) |